治らない日本人の「平和ボケ」 解決策はあるのか
長年、日本を支配する「戦後体制の呪縛」から私達が抜け出すことは並大抵のことではない。私達に植え付けられた「戦争加害者」という意識は70年以上経った今でも日本人の心の中に生き続けている。戦争とは勝てば官軍の要素があり、勝者は全てを手に入れ、敗者は全てを失う。日本は米国などの連合国に破れ、全てを失った。それは者や金ではなく、真に失ったものは「日本人の精神」であった。
国家を形作るものの中で一番大事なことは「国防」である。他国からの侵略にどう対処するか。それが国家の命運を分けてきた。21世紀を迎えても未だに戦争が世の中から無くならないの理由はそのためで、国防をいかに有効化することができるかが、国家の繁栄のカギを握ることになる。現代では国防の論点が他国からの侵略よりも、民族間の争いや、宗教間対立がメインとなっているが、それでも本質は変わらない。国防は今の生活を続けていくうえで必要不可欠な事柄なのである。
国防論が盛り上がらない理由
しかし私達日本人は国防について全く議論していない。していないどころか、興味や関心さえ抱かない。それはまたしても先の大戦で敗北したことが響いているのだ。私達の先輩は米国との戦争で疲弊した日本社会を知っている。焼け野原になった都会。多くの死者を出した空爆と原爆投下。戦争を終わらせる英断ができなかった当時の政治などに大きな失望感を抱いた。
私達の先輩である戦争経験者は戦争の悲惨さを懸命に伝えている。それは絶対に必要なことだ。信じられないことだが多くの若者は日本がかつて米国と大戦争をしたことを知らない者も多いと聞く。わずか70年前のことなのに。現在の良好な日米関係と強固な同盟関係を見ればわからなくもないが、戦争で多くの戦死者を出し、戦争がどういうものなのかを伝えるのは意義のあることだ。
しかし戦争経験者は肝心なことを伝えようとしない。それは「国防論」だ。日本がなぜ米国と戦争をしたのか、それは教科書を見ればわかることだが、米国と開戦するにあたって、あるいは本土決戦を迎えるなかで日本の国防は整っていたのか?その疑問には一切答えていないのだ。なぜ戦争経験者は国防論を我々に教えてくれないのだろうか。それが現在の日本社会において、国防論が盛り上がらない根本的な原因であると考える。
本当に戦争は「悪」なのであろうか
確かに戦争は極力避けるべきである。しかしエドワード・ルトワック氏が著書の「戦争にチャンスを与えよ」で主張するように、戦争は決して悪ではない。平和を作り出す手段なのだ。つまり外交手段で解決できなかったことを、武力を用いて白黒付けようとするのが戦争である。戦争に突き進む過程の中で、そこには両国民の理解があるのだ。もちろん全国民が賛成するわけではないが、多くの国民が「戦争もやむなし」と理解を示して、戦争に突き進むのだ。
戦いが終わったあと、「平和」が生まれる。しかし現代社会ではそうならない。それは「他国の中途半端な介入」があるからだ。米国の行動が随所に表しているようにシリア、イエメン、リビアにおいて泥沼の戦争を続けているのがその証拠だ。特にイラクやアフガンでの苦戦は米国の行動が間違いだったことを証明しているようなもので、数年に渡って解決も見えてこない紛争に介入している姿は誰も納得いくものとは言えない。
戦争は「平和」を生み出す。しかしその条件とは当事国同士がどこの介入を受けずに死力を尽くし戦い終えたあとに生まれるものだ。かつての日本もそうであった。国民を総動員して米国と戦った太平洋戦争は、日本人の生活を疲弊させ、物資は底をつき、最終的には米国に敗れてしまった。その後の日本を見て欲しい。世界有数の経済大国にのし上がり、民主国家として世界を代表する先進国となった。それは戦争に敗れて平和を追求したからだ。つまり戦争が平和を生んだのだ。もし米国との戦争をしていなかったら日本は今も軍事国家だったかもしれない。戦争が平和を生み出すということは日本がよく理解しているはずだ。
逆説的な言い方であるため、日本人にとっては受け入れがたい事実かもしれない。戦後の呪縛からはそう簡単には逃れられない。しかし北朝鮮の核武装や中国による領土の侵略の脅威を目の前に、私達は未だに何も議論も行動も起こしていない。それが「平和ボケ」と言われる最大の原因であり、それは「国防の教え」を避けてきた、私たちの先輩が築き上げた日本社会の雰囲気がそうさせているのではないだろうか。
JAPAN IN THE WORLD編集長
Mitsuteru.O
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